夜の手  菱山修三

 

 佐和。佐和。いまも私はそれを呼ぶ、暗く、こゑなく、さわがしく。かうして私のこころはお前に近づき、かうしてお前から卻〔しりぞ〕いてゐる。離合のはかない夢をつれて。それにもうお前はこの日の下にはゐない。
 夜を明かして、寒いベッドの傍で私はお前の手を執〔と〕つた。凍つたものが私の手の中に残つた。その夜のランプは、まだ私の本棚の上にある。その夜の手を、私はまだ自分の手の中に握つてゐる。
 私の前で、既にこの世は終りかけた。私は強かつた。私は泣かなかつた。私の肱の下で、ぼんやりと夜は明け、日は暮れていつた。
 骨と灰とは地の下にある。それにもまして、何かが私を妨げる。佐和。お前の呼名〔よびな〕の中から、もはや昔の、あの強い人は生れない。



 菱山修三(1909年/明治42年—1967年/昭和42年)といえば、あの「夜明け」という詩がすぐに思い出される。

私は遅刻する。世の中の鐘がなつてしまつたあとで、私は到著〔たうちゃく〕する。私は既に負傷してゐる。……

 これは、第一詩集『懸崖』(1931年)の巻頭に置かれた一篇の詩であるが、一読、忘れがたい印象を残す。そして、菱山修三が書く短詩(あるいは散文詩)が、当時のエスプリ・ヌウヴォーの詩とは異なるものであることに関心が向く。「きょうの詩の思考は……意味のあることを書くというよりも書くことに出来るだけ意味を与えることに在る」ということばからも、菱山が詩を書くことに意識的であったことが了解されるのだが、この「夜明け」という詩を成り立たせているものもそういう意識だろう。詩を書くことと現実との乖離。
 その乖離を止揚すべく、すなわち詩と批評との弁証法を生きるべく、菱山の形而上学は散文詩という形式を選択するが、詩人は、その規律を己の内面に求めた。それは、だが内面との葛藤を生きることでもあった。「そんなにもそんなにも明瞭を欲しなかつたならばいつそう明瞭であつたらうに!」
 「夜の手」は『懸崖』に収められた一篇である。これは、愛の詩だろうか。僕は、歌うことを拒否した(散文詩を選択した)詩人の矜持(「私は強かつた」)と悲しみ(「もはや昔の、あの強い人は生れない」)がたくまずして歌われたものとして読んだ。『懸崖』には、ほかにも味わうべき詩が収められている(文責・岡田 09.10.05)